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・・・三原焼きの歴史・・・

 三原市でのお好み焼の歴史は、戦後まもなく広島市内で一銭洋食から、お好み焼という名前で親しまれだした頃と時を同じくして始まりました。

 三原では麺入りのお好み焼のことを「モダン焼」という事が多いのですが、これは関西地方独特の呼び方で、広島県内で広島風のお好み焼を出している地域ではあまり見られない特徴です。

 理由としては、当時から三原市の産業基板を築いていた「帝人」や「三菱」の存在が大きいと推測されてます。当時から、関連企業の仕事で関西からの来客も多かったと思われ、関西での呼称である「モダン焼」と注文を受けることが多く定着したのではないかという見方が一般的です。

 鳥もつを入れる文化もまた特徴的で、昭和30年代初頭にはすでに提供していた店もあったようです。

 鳥もつを入れるようになった理由としては、豚肉より割安で栄養価も高く、また養鶏が盛んであったため、新鮮な鳥もつが手に入る環境があったからではないかと考えられています。

 現在でも、三原市は広島県の鶏肉生産量の約半数を占めており、広島県の地域資源にも指定されている特産品です。

 当たり前のように食べていたこの鳥もつ入りのお好み焼きを「三原焼き」として売り出したのも最近で、ご当地グルメとして三原焼き振興会が中心となって全国にPRしています。

 また三原では、お好み焼の焼き方にも特徴がある店が見られます。通常、広島のお好み焼きは、生地、キャベツ、具材、麺といった順番で「層」になっているのですが、市内のいくつかの店では、あらかじめキャベツや麺を焼きそばにして、それを生地の上に乗せて焼くといった製法が見受けられます。このような焼き方になった理由は定かではありませんが、提供スピードのアップや、味の均一化のような理由があったと考えられます。

 一時は県内での人口あたりのお好み焼店の数はトップクラスで100店以上あったようですが、近年では減少傾向にあり、現在では約80数店舗となっています。

 三原市内にはソースを製造している「中間醸造」や麺類を製造している「まじま製麺」、みはら神明鶏の生産販売をおこなう「鳥徳」などがあり、お好み焼きに必要な材料がすべて地産地消できるといった点も特色と言えます。

 また、広島県内には様々なご当地お好み焼があり、「府中焼き」、「庄原焼き」、「尾道焼き」、「竹原焼き」など地域の特徴を活かした美味しいお好み焼がたくさんあります。

 一言でお好み焼と言っても地域だけでなく、お店によっても千差万別です。いろんなお店があるから面白くて奥の深い世界なのです。

・・・お好み焼きの歴史・・・

 お好み焼の起源は、中国の喫茶文化とともに伝えられた「餅(ビン、ビェン)」と言われるお茶菓子が起源と言われており、安土桃山時代の千利休が作らせていた「麩の焼き(ふのやき)」に形を変えてきたと考えられています。

 その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼(すけそうやき)」が、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれました。

 元は関東が中心だった粉モノ文化ですが、1923年(大正12年)の関東大震災の際に被災された人々が全国へ散り各地域で根付き、その地域の特色あるお好み焼へと発展していったと考えられています。

 大正から昭和にかけてウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」が食料不足を補う方法として一般的になり、関西では「混ぜ焼き」を特徴とした関西風お好み焼きが定着しました。

 広島では、終戦後「一銭洋食」を元に、ねぎをキャベツに置き換えたり、「もやし」や「そば」などの具材追加で、乗せ焼きが特徴の広島風お好み焼きが誕生しました。

 お好み焼のソースも同時期に誕生し、元々日本酒の生産地であった広島では酢の製造も盛んで、その延長でウスターソースも製造していました。当初はお好み焼にはウスターソースをかけていましたが、サラサラなのでお好み焼にかけてもすぐ流れ落ちてしまうため、新たに開発されたのが粘度の高い「お好み焼専用ソース」でした。

 戦後、焼け野原になった広島で比較的早くに営業をしていたお好み焼屋は、戦争により働き手である男性を失った女性が店を営業することが多かったと言われています。そのため、屋号に「〇〇ちゃん」などの呼称が用いられることが一般的となり、その名残は今も広島県全域に残っています。

 現在では、チェーン店や居酒屋風、高級店などもありバラエティーに富んだメニューが出てきました。

 しかしお好み焼の原点は、小さなカウンターの前で汗をきながら、いつもの笑顔で迎えてくれるおばちゃんと他愛のない話をする、そんな姿が広島の人々のお好み焼のカタチなのかもしれません。